【当日の映像】 長崎大司教区家庭委員会 YouTube で公開しています。
2025年聖年開幕ミサ 長崎大司教区 ミサ説教収録 https://youtu.be/_yL0O9An5co?feature=shared
( ↑ 2025年1月16日に追記しました。)
(2024年12月31日説教原稿を追記しました。ブログの一部を編集済み)
「希望の巡礼者」をテーマとする2025聖年の開幕ミサが、12月29日(日)に浦上教会(長崎教区司教座聖堂)で行われた。
14時。参加者ははじめに浦上教会信徒会館に集い、中村倫明大司教の招きの言葉によって聖歌を歌いながら巡礼行列をし、聖堂正面の扉の前に集まった。その後、大司教によって司教座聖堂の扉が開かれ、司教・司祭団、修道者や信徒たち多くの人々が扉から入堂。入堂後は皆が見守る中で被爆十字架の開示、被爆十字架と祭壇への献香、聖水による灌水が行われ、美しい聖歌の歌声が響く中、大きな希望のうちに祈りがささげられた。
閉幕ミサを迎えるまでのおよそ1年間、全世界の教会は25年に一度の通常聖年のときを過ごしていく。
※被爆十字架… この被爆十字架は旧浦上天主堂の正面入り口上部に設置されていたキリストの磔刑像で、原爆投下によって損傷したものです。
【ミサのときの司教のことば】この十字架を祭壇横に顕示します。「裂かれたパンが示しているのは、イエスの十字架であり、その十字架は御父への愛からくるイエスの従順のいけにえです。」(教皇フランシスコ使徒的書簡『わたしはせつに願っている』)2025年は、大浦天主堂での信徒発見の年から160年になります。ちょうど中間の80年前の1945年には、長崎に原爆が落とされました。長い迫害が終わっても、原爆によって長崎の地は焼け野原となってしまいました。浦上天主堂も倒壊し、天主堂正面に掲げられていた十字架のキリスト像は壁面に残りはしたものの損壊してしまいました。この被爆十字架を今回の聖年の期間、この場に顕示いたします。長い禁教の苦難をたえしのんだ先祖たちを支えていたもの、被爆後立ち上がろうとする人々を励ましたもの、まさしくそれは「希望」でした。その希望をこの被爆十字架が示しています。「キリストの十字架は期待を裏切ることのない希望のしるし〔だから〕です。」(教皇フランシスコ「一般謁見」)
中村倫明大司教による説教
2025聖年開幕ミサ
2024年12月29日、長崎・カトリック浦上教会(司教座聖堂)
今日は、信徒会館から始まった、いつもよりも長い典礼となりましたので、長い話は控えます。
2025年聖年が始まりました。
信徒会館において、この聖年のために公布されたフランシスコ教皇様の大勅書『希望は欺かない』の一節が朗読されました。長崎の典礼委員会が選びました。その箇所をあらためて思い出してみましょう。
「すべての人は希望をいだきます。明日は何が起こるか分からないとはいえ、
希望は、よいものへの願望と期待として、一人ひとりの心の中に宿っています。けれども将来が予測できないことから、相反する思いを抱くこともあります。
信頼から恐れへ、平穏から落胆へ、確信から疑いへー。わたしたちはしばしば、失望した人と出会います。自分に幸福など何もないかのように、懐疑的に、悲観的に将来を見る人たちです。聖年が、すべての人にとって、希望を取り戻す機会となりますように。」
以上の教皇様のお言葉を使うと、教会というところは、信頼の場です。
教会は、安らぎ平穏な場です。教会は確信の場です。
だって、このわたしたちとともに、主はいてくださるからです。
なのに、今のわたしたちは、信頼よりも恐れの方が、平穏よりも落胆の方が、確信よりも疑いの方が多くなり、悲観的になっていることの方が多いかもしれません。
わたしたちはよく口にします。「信徒は少なくなっている。教会に来る人も少ない。召命も少ない。維持費や教区費も少なくなっている。」
こういう中で、わたしたちは今一度、「主はともにいてくださる」このことを、まず何よりも確認していきましょう。
今回の聖年のために、長崎教区が掲げた垂れ幕には、「神よ、あなたは私の希望」と記しました。神さまこそ、わたしたちのまことの希望です。そして、その神さまがともにいてくだされば大丈夫なんです。
だったら、わたしたちは恐れの言葉ではなく、落胆の言葉ではなく、疑いの言葉でもなく、悲観的な言葉でもなく、もっと希望の言葉を語っていきましょう。希望の福音を語り、希望の福音を伝えていきましょう。
なお、この聖年開幕にあってのローマからの規定には、“行列のために、教区にとって歴史的にも重要な意味を持つ十字架を用い、その後は、聖年の期間中、祭壇の近くに顕示するように”となっています。
わたしたちの長崎教区において、この期間中に顕示される十字架は、原爆によって被爆し、破損した十字架のイエスさまといたしました。
浦上の歴史、長崎の歴史は、長きにわたる迫害による徹底的な弾圧の歴史と、その後の被爆による徹底的な破壊の歴史です。それでも、わたしたちの先祖たちは、希望を失うことなく、どん底から立ち上がっていきました。
聖年中に掲げられる十字架のイエスさまは、「迫害の過酷さ、戦争や原爆の悲惨さ」という “苦難や死という絶望の姿”よりも、その苦しみや死さえ乗り越え、復活を示してくださる“神さまの愛”と“浦上の先輩たちが身をもって証ししてくれた信仰”の力強さの神髄を示してくれるものです。
わたしたちのこの十字架のイエスさまは、世界中のどこにあるどんな十字架のイエスさまよりも、ご自分がどんなことになろうとも、わたしたちを見捨てることなく「いつもともいてくださる」神さまのことを、わたしたちに伝えてくれます。
このわたしたち長崎教区は、「どんなことがあっても、主はともにいてくださる」ということを全世界に向かって証ししていけるんです。
「どんな時だって、どんなことがあっても、主はともにいてくださる。」
どうぞ、皆さん、希望の言葉を語っていきましょう。希望を持って歩んでいきましょう。すなわち神さまのことを語っていきましょう。福音を恐れることなく語っていきましょう。
フランシスコ教皇様は『大勅書』の中で願っておられます。
「聖年が、すべての人にとって、希望を取り戻す機会となりますように。」
この教皇様の呼びかけにこたえ、希望の聖年を始めてまいりましょう。
今回の聖年のテーマは「希望の巡礼者」です。
そして、本日は、聖家族のお祝い日にあたります。
この聖年の間、このわたしたち長崎教区が、神さまの一つの大きな家族として、ともに参加し交わりながら、まわりの人々に希望を伝えていく、すなわち神さまを伝えていく希望のパン種として歩んでいく、希望の巡礼者、希望の宣教者としてのわたしたち教区の歩みを始めていきましょう。
このミサには外国の方々もおいでです。一言です。
To foreign people.
This jubilee’s theme is “Pilgrims of Hope”.
During this jubilee, let us begin our walk as pilgrims of hope and missionaries of hope, walking as seeds of hope to spread hope to those around us, that is, to spread God’s message.
I know it must be difficult to live in a country so different from your own.
Please cooperate with the Japanese Church and help us to spread the gospel of Jesus Christ in Japan.
I look forward to working with you always.
どうぞ皆さん、ともなる巡礼と宣教の歩みをよろしくお願いいたします。
(説教ここまで)